バラを愛した偉人

愛されるバラ

皇帝が統制し政治を行っていた頃のローマで、バラが皇帝ネロをはじめとする歴代の皇帝や貴族たちに独り占めするかのごとく愛されてきたことは、現在までにバラが多くの人を魅了し、愛されてきた理由の一つと思われます。
皇帝や貴族がバラを求めたのでそれに応じるためにとてつもない量のバラが栽培されました。宴や集会所をバラで飾るだけではく、屋敷全体においてもバラで埋め尽くされ、貴族の暮らしにとって不可欠なものとなっていたそうです。

キリスト教とバラ

バラは聖母マリアの花としたキリスト教は、神聖なものとしてバラを捉えました。キリスト教と結びついたバラは、聖母マリアの象徴とされているニワシロユリと一緒に、ヨーロッパの絵画に描かれる花のひとつとなりました。

バラは、手洗い用のバラ水として使われるだけでなく、乾燥させた花びらは収納された衣服に散らされました。また、バラのお菓子はパーティーで珍しいものとして大切にされました。中世の生活においてのバラは、観賞用だけでなく嗜好品としても欠かせないものとなっていました。

クノッソス宮殿

ギリシャ最古の文明とされ今から4000年近く前に、クレタ島で栄えたミノア文明時に、クノッソス宮殿で、紀元前1500~1700年頃に描かれたとされるフレスコ画が発見されました。青い鳥が描かれており、その絵の中に描かれた植物がバラと考えられていますが、本当にバラなのか?バラなら何種なのかと論議されてきました。イギリスのエヴァンス卿の考古学調査団が発見したフレスコ画に描かれた花が本当にバラだとしたら、世界で最も古く最初のバラの絵ということになります。

ナポレオン妃ジョセフィーヌ

ジョセフィーヌはカリブ海のフランス領マルティニック島で生まれました。
アレキサンドル・ド・ボアルネ子爵夫人でしたが離婚し、1796年にコルシカ島生まれの年下であるナポレオン・ボナパルトから求婚を受け、再婚しました。
フランス皇帝ナポレオン1世の妃ジョセフィーヌは、バラを愛したどの貴婦人よりも、その時代に知られていないバラの存在を世間に発表することに貢献しました。ジョセフィーヌはバラを愛したことで知られていますが、幅広い趣味を持っていたそうです。

マルメゾン宮殿

ナポレオンは莫大な費用を注ぎ込みマルメゾン城を手に入れ修造し宮殿としました。そのマルメゾン宮殿にジョセフィーヌは、約300品種のバラを世界中から夢中で集めました。単にバラを愛でるだけではなく、バラだけでない様々な植物をマルメゾン宮殿に寄せ集めコレクショするために使用した費用は、国家の財政状態を危うくするほどだったそうです。当時のマルメゾン宮殿の正面の庭は収集したバラで埋め尽くされていました。
そしてジョセフィーヌはたくさんの園芸家を集め、収集したバラの改良を進めました。

「マリー ルイーズ」はジョセフィーヌがマルメゾンで作らせた初めの時期のダマスクローズです。深いピンクの花色に、花芯はグリーンアイになる園芸品種を誕生させました。うどんこ病に注意が必要な品種です。

また、バラの改良だけではなく、集めたバラを宮廷画家のルドゥーテに描かせ記録させました。その後、ルドゥーテが描いたものは『バラ図譜』として出版され、バラの画家と呼ばれるほどになりました。ジョセフィーヌが集めたバラがどんなバラだったのかを、ルドゥーテのバラ図譜を通して、今は見ることができない多くのバラを知ることができます。

「スレイターズ・クリムズン・チャイナ」

バラといえば赤い花を想像する方は多いと思います。星の王子様が愛したのも赤いバラだったそうです。しかしもともとヨーロッパには鮮やかな赤い色をしたバラはありませんでした。中国で発見されたこのバラをイギリスの東インド会社の船長がロンドンに持ち帰り、 園芸家であるギルバート・スレイターに送り発表されました。花色は真っ赤な半八重咲きで、モダンローズの誕生につながる香りや四季咲き性の性質にも重要な役割を果たした始まりのバラといわれています。
そんなバラをジョセフィーヌは戦争中の障害を問題にせず、敵国であったイギリスから取り寄せました。

クレオパトラ

紀元前1世紀、プトレマイオス朝エジプトの最後の女王クレオパトラは、ローマの軍人でカエサルの後継者の座を狙うマルクス・アントニウスを虜にするために、バラの花弁を床に敷き詰め香水を用いて手厚くもてなしたそうです。また、大量のバラ水を浴びていたとも伝えられ、バラ栽培が盛んに行われていたことが考えられます。

皇帝ネロ

紀元前1世紀、ローマ帝国第5代皇帝で、暴君と呼ばれた皇帝ネロはバラ狂いで知られています。バラの冠をかぶり、食事の前後に泳ぐためのプールはバラの水で満たされていました。食堂の噴水からはバラの香水が湧き出し、酒には必ずバラの香りがつけられ、食事の最後のデザートはバラのプディングでしめていたそうです。宮殿での晩餐会では部屋をバラの花で埋め尽くすほど飾り、天井からバラの雨を降らせ大切な客人の一人が花の重みで窒息死してしまった話を残しています。

ジャン=ピエール・ヴィベール

フランスのパリに生まれたヴィベールはナポレオン軍の兵士として戦いましたが、負傷してパリに戻りました。30代後半頃からバラの育種を始め、引退するまでに発表したバラの数は600種を超えたといわれています。亡くなる前に孫にヴィベールは「私が愛したのはナポレオンとバラだけだった。深く憎んだのは、私の英雄を打ち倒したイギリス人と、私のバラを食い荒らした白い虫だ。」と語ったそうです。

皇帝ヘリオガバルス

ローマ帝国第23代皇帝で、快楽主義者であったヘリオガバルスもバラを盲目的に愛しました。バラのサラダやジャムを食べ、バラ酒の風呂に入り、バラのベッドで寝ていたため、 身体を壊しましたが、バラのひと飲みで健康を回復したといわれています。

カイウス・コルネリウス

シチリア島の司令官であったコルネリウスも熱狂的にバラを愛しました。地方へ旅する時は、座布団の中にバラの花弁を詰め込み、バラの花冠を頭に飾っていました。驚くべきは鼻の下に小さな匂い袋をいつもぶらさげており、その中にはバラの花弁を詰めていたそうです。

マリー・アントワネット

18世紀のフランス王ルイ16世の妃であるマリー・アントワネットもバラを愛したことで知られています。オーストラリア皇女として生まれ、15歳で嫁いだマリー・アントワネットは、麗しきヴェルサイユのバラと讃えられました。バロック時代の象徴といわれるヴェルサイユ宮殿に暮らし、20年の間ヴェルサイユ宮殿の女王として華やかな生活を送っていました。当時、宮殿には水洗トイレがなかったため、用を足した後のニオイ消しのためにバラの香水を使っていたそうです。
フランスの財産が破綻しそうになると、その元凶がマリー・アントワネットとされ、庶民や 貴族から憎しみを向けられてしまいました。精神的に追い詰められ、ブロンドの髪が白バラのようになってしまったそうです。

大カトー

ローマ期の政治家であるマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスは、大カトーやカト・ケンソリウスなどと呼ばれています。その大カトーは、取り上げるだけの価値のないような戦勝などにバラが贈られることに辛口の意見を述べていました。バラに対して与えられていた「高貴な象徴」という価値が下がってしまうことを心配していたそうです。しかし盛大にバラを使用することを非難する一方で、生花や花環、バラの冠に使用するために必要なたくさんのバラのため、バラを家の庭に植え栽培することを勧めていました。大カトーにとってバラは「高貴なものの象徴」であり、その価値を保ちたかったのではないかといわれています。

古代ギリシャのバラ

古代ギリシャ人によってバラは古代ローマに伝えられました。古代ギリシャでは、バラそのものの美しさではなく、その香りの良さも注目されていたそうです。

ギリシャの政治家で詩人だったソロンは、バラの花冠は貞操を失った乙女には禁じると書いており、詩人のアルキロコスは、乙女の美しさはバラをもつことで際立ったと書いていました。バラが純潔や清楚を象徴する花となっていたことが想像できます。ギリシャ人がバラに与えた高貴さ、純潔や清楚さのイメージは古代ローマ人へも持続させたかったのだと思います。しかし古代ギリシャとバラの関係はわかっていないといわれていますので、当時のバラの役割や人々との関係を想像してみるのも楽しいですね。

古代ローマの人々

ずっとずっと昔から人々を魅了してきたバラですが、特に古代ギリシャ人の影響を引き継いだローマ人にもバラへの興味は受け継がれました。バラへの情熱を表す「ロザリア」という名の休日を作り、街角には甕の中にバラの花弁を浮かべたものを置き、公衆浴場には花弁を浮かべ、枕の中にはバラの花弁が詰められ、花弁 祭りや休日以外でも、花弁をゼリー、ハチミツ、ワインなどに入れたデザートや飲み物が作られ、バラのある暮らしを楽しんでいました。中でもバラの花弁をワインに浮かべることは後まで続いたそうです。 を浮かべたワインを飲み、バラのプディングを食べたそうです。

バラの日

ローマ時代のバラは情熱と献身の象徴として愛されました。そして愛の女神と酒の神にはバラが捧げられました。神への捧げものであると同時に死の花であったようです。ローマ人はバラを祭りや重要な儀式、墓地の飾りにも利用しました。名誉を表すために、戦争に勝利して帰ってきた軍隊や戦車にはバラの花輪が投げかけられました。ローマでは、死者の祭典である5月11日は「バラの日」と呼ばれ、集まった人々はもっとも尊敬する人の墓にバラを供えました。

祭りの日には、祭りが行われている間ずっと家の中をバラで飾るだけでなく、神殿や凱旋門、記念碑や神々の彫像などあちらこちらに飾られていました。また、結婚祝いには、花冠が編んで贈られました。バラを冠として使うしきたりはローマ人が始めたものではなく、ギリシャ時代からあった説があり、ヘブライ人やバビロニア人もバラの花環をつけていたという説もあるそうです。

バラの下で

ローマでは、「バラの下で」という言葉が生まれました。天井にバラが描かれている、または彫刻されている部屋であれば、その部屋での会話や論談は秘密にすることが約束されていました。このことはギリシャの将軍らがミルヴァの寺院のそばにあったバラ園に集まり古代ペルシア王クセルクセスの軍隊に反撃する作戦を立て、その後勝利したときに生まれたといわれています。バラが秘密を守るシンボルとして使われるようになり、ローマ人だけではなく、中世にはフランスやドイツ、イギリスでもバラの下で(sub rosa)が機密厳守を意味する言葉として使われるようになりました。

私のバラ

ローマの愛の遍歴者は自分の恋人のことを「私のバラ」と呼んだそうです。最初に咲いたバラの花を贈ることが習慣となっており、隠された意味が浸透するほどにバラは日常生活の一部となっていたのですね。

バラ祭り

ヨーロッパのブルガリア共和国では、毎年6月の第一日曜にバラ祭りが盛大に行われます。 食事や飾りにバラが使われ、歌や踊りで人々は楽しみます。毎年もっとも両親に素直でおとなしく、礼儀正しい若い娘という基準から選ばれた娘が「バラの女王」となり、バラの冠をかぶり、祭りの主役となります。過去にはバラの女王に選ばれた方が広島県に訪れていたことがあったそうです。

バラを詠んだ偉人

ホメロス

紀元前8世紀頃、古代ギリシャの盲目の詩人でホメロスの作品で、世界最古の長編叙事詩『イリアス』には、アフロディーテがバラの香油をぬり、盾はバラで飾られていた、と書かれています。アフロディーテはギリシャ神話に登場する美の女神のことですが、若い人の美しさのことを「バラの頬」と表現していました。

サッフォー

紀元前7世紀後半、古代ギリシャの女流詩人サッフォーは、恋愛詩人としてローマ時代にも知られていました。サッフォーはバラを、花々の女王、その香りは恋の吐息、と謳っています。

アナクレオン

紀元前6世紀頃、古代ギリシャの抒情詩人アナクレオンは、「バラなる花は恋の花、バラなる花は愛の花、バラなる花は花の女王」と詠んでおり、古代からバラが愛されていた花だと想像できます。